医療の現場には、
「良い医療」をしたいと思っている人が多い。
丁寧に説明したい。
患者の生活を考えたい。
無理のない選択肢を提示したい。
そうした思いは、
医療者として自然で、誠実なものだ。
だが不思議なことに、
そうした医療ほど、長く続かないことがある。
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「良い医療をしているのに、なぜ苦しいのか」
この問いは、
多くの医療者が一度は感じたことのある違和感だろう。
忙しさは増す。
余裕は減る。
人は疲れていく。
それでも、
医療の質が目に見えて上がった実感はない。
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良い医療が続けにくい理由の一つは、
その「良さ」が構造として評価されにくいことにある。
丁寧な説明。
慎重な判断。
生活への配慮。
それらは、時間とエネルギーを要する。
だが制度上、その価値は必ずしも十分に反映されない。
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結果として、
良い医療は「手間のかかる医療」になる。
手術件数が増えるわけでもない。
効率が上がるわけでもない。
数字としては、むしろ悪化することすらある。
現場の努力と、評価の軸が噛み合っていない。
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もう一つの理由は、
良い医療が個人の善意に依存しやすいことだ。
誰かが頑張る。
誰かが無理をする。
誰かが引き受ける。
その場では成立する。
だが、それは再現できない。
その人がいなくなれば、医療の質は簡単に崩れる。
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医療の現場では、この構造が長く放置されてきた。
善意は称賛されるが、
設計には落とし込まれない。
結果として、
良い医療ほど属人的になり、続けにくくなる。
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経営者として医療を見るようになってから、
私はこの点を強く意識するようになった。
良い医療を「続けられる形」にしなければ、
それは一時的な理想で終わる。
続かない医療は、結果として誰も守れない。
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ここで重要なのは、
良い医療を諦めることではない。
良い医療を、構造にすることだと思っている。
誰がやっても、ある程度同じ質になる。
無理をしなくても、回り続ける。
その状態を目指さなければ、良さは消耗品になる。
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良い医療ほど、
説明が多く、判断が複雑で、時間がかかる。
だからこそ、
そこに設計と選択が必要になる。
例えば、丁寧な説明を
「その人が時間をかけて頑張るもの」として
個人に背負わせ続けるのか。
それとも、
説明資料として切り出し、
誰が行っても一定の質になる形を作りあげるのか。
善意を否定する必要はない。
だが、善意を消耗しない形にする工夫は必要だ。
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どこまでを標準にするのか。
どこを仕組みに任せるのか。
どこを人が引き受けるのか。
それを曖昧なままにすれば、必ず誰かが疲弊する。
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良い医療が続かないとき、問題は医療の質ではない。
「続けること」を
引き受ける人がいなかったという点にある。
誰かが、その役割を担わなければならない。
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外科医としての判断。
経営者としての判断。
この二つを切り離したままでは、
良い医療は続かない。
どちらかが欠ければ、理想は空中分解する。
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良い医療ほど、なぜ続けにくいのか。
それは、
良さを「続ける前提」で設計してこなかったからだ。
善意に頼り、
我慢に支えられ、
誰かの犠牲の上に成り立ってきた。
善意は、医療を始める力にはなる。
だが、医療を守り続ける力にはならない。
善意だけでは、現場を守れない。
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このブログ「外科医と経営者としての判断」では、
外科医、そして経営者としての経験から感じたこと、迷ったこと、
現場で抱いてきた違和感を、
できるだけそのままの言葉で綴っていきます。















