医療の価値とは、どこで決まるのだろうか。
この問いは、これまで何度も繰り返されてきた。
そしてそのたびに、いくつかの「正しそうな答え」が共有されてきた。
治ること。
安全であること。
公平であること。
どれも間違ってはいない。
医療にとって、欠かすことのできない要素だ。
だが、それらをすべて満たしていても、
なお違和感が残る医療がある。
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これまでの医療は、
「正しさ」を中心に価値を組み立ててきた。
エビデンスに基づいているか。
標準から外れていないか。
制度として整合しているか。
それらは、
医療を社会の中で成立させるために、
必要不可欠な軸だった。
同時に、
正しさの外側にあるものを、
長いあいだ切り落としてきた軸でもあった。
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患者の生活。
医療者の疲弊。
現場の余白。
続けられるかどうか、という問い。
それらは、
「正しい医療」を語る場では、後回しにされがちだった。
だが今、
後回しにされてきたものが、医療の継続そのものを揺るがしている。
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ここで、医療の価値を問い直す必要が生まれている。
それは、「どれだけ良い医療か」という問いではない。
どれだけ続けられる医療かという問いだ。
一時的に理想的でも、
誰かの無理の上に成り立つ医療は、いずれ立ち行かなくなる。
続けられない医療は、結果として、価値を失う。
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価値の軸は、一つではない。
安全と効率。
標準と個別。
理想と現実。
これからの医療では、
それらを単純に優劣で並べることはできない。
どの価値を、
どの場面で、
どの程度まで引き受けるのか。
その判断の積み重ねが、医療の輪郭を形づくっていく。
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日帰り手術を通じて、私は一つの感覚を持つようになった。
医療の価値は、結果そのものよりも、
過程での引き受け方に宿るのではないか、という感覚だ。
どんな説明をしたのか。
どこまでを一緒に考えたのか。
どこから先を引き受けないと決めたのか。
その一つ一つの判断が、
患者にとっても、
医療者にとっても、
意味を持つ。
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これからの医療では、
完璧さを価値の中心に置き続けることはできない。
代わりに問われるのは、納得できる不完全さだ。
すべてを保証できなくても、
なぜそう判断したのかを説明できること。
その説明を、患者と医療者が共有できること。
それは、
正解を出す医療から、判断を引き受ける医療への転換でもある。
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医療の価値は、
制度が一方的に決めるものではない。
専門家だけが定義するものでもない。
患者の満足度だけで測れるものでもない。
現場で引き受けられた判断が、
時間をかけて、
あとから価値として認識される。
だから、
価値は固定できない。
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社会が変われば、
医療に求められる価値も変わる。
人口構造も、
働き方も、
患者の価値観も、
医療者の限界も変わっていく。
過去の価値観だけを守ろうとすれば、
医療は孤立する。
更新され続ける価値観を、
誰かが引き受け続けなければならない。
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これからの医療は、
完成形を目指さない。
代わりに、
問いを持ち続けることを引き受ける。
何を守るのか。
何を手放すのか。
誰のための判断なのか。
その問いを、
現場で考え続ける力そのものが、
医療の質になる。
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医療の価値は、
どこかに用意されている答えの中で決まるのではない。
現場で引き受けられた、無数の判断の積み重ねが、
あとから価値と呼ばれる。
医療とは、完成しない仕事である。
そしてその未完成さを、誰が引き受け続けるのか。
その問いの先にしか、
これからの医療の価値は存在しない。
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このブログ「外科医と経営者としての判断」では、
外科医、そして経営者としての経験から感じたこと、迷ったこと、
現場で抱いてきた違和感を、
できるだけそのままの言葉で綴っていきます。















